徳川家康

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服部半蔵

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イジメのルーツ 6

人権とローカリズム(地域主義)の環境上の衝突

   イジメのルーツ 6   徳川四天王、井伊直政の登場です

 

○ 少し寄り道をして、家康爺い(1543年 - 1616年)の話題をもう少し、先週NHKの「その時…」の番組の中で徳川四天王について取り上げていました、私の観点を織り交ぜて少し、

徳川四天王

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酒井忠次(1527年 - 1596年)

本多忠勝(1548年 - 1610年)

榊原康政(1548年 - 1606年)

井伊直政(1561年 - 1602年)

酒井の70歳を除いて、家康爺いより短命でした、かねてより家康爺いが意識していたかどうかは別として、闇(夜間)を支配できたからこそ覇権を摂ったと考えているので、これら4名の中で最も忍者の素養のある家臣が誰だったかを見てみます、後に大名や家老になったとしても負ければ首を取られた時代です、あらゆる勝つための技術(鉄砲、忍術を含め)を駆使し、利用したのは間違いないでしょう、

 

○ 本多忠勝は伊賀越えの立役者で、6歳年上の服部正成(服部半蔵)(1542年 - 1596年)とは懇親の関係だったのでしょう、そういう意味で最右翼です、

榊原康政は本多忠勝とは同年齢であったことから仲が良く、親友関係にあったという。また、酒井忠尚に仕えていた頃からの同僚である大須賀康高の娘を妻とした、このように振り返ると、彼らの育ち方からも本多と榊原、服部半蔵は一身同体とみてよいでしょう、

井伊直政

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井伊 直政(いい なおまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。井伊氏第24代当主。上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩の初代藩主。さらにその後に近江国彦根藩の初代藩主。

家康の家臣になるまで

 井伊直政像(彦根駅前)永禄4年(1561年)219日、今川氏の家臣である井伊直親の長男として、遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)で生まれる。井伊氏は先祖代々、遠江国井伊谷の国人領主であり、直政の祖父(または一族)井伊直盛は今川義元に仕えて桶狭間の戦いで戦死した。

父の井伊直親は、直政の生まれた翌、永禄5年(1562年)に謀反の嫌疑を受けて今川氏真に誅殺される。直親の死によって、新たに直親の従兄妹に当たる井伊直虎が井伊氏の当主となったが、実際に家督を継いでいたのは、当時まだ2歳の直政(当時の名は虎松)であった。その後、直政の生母が今川氏の家臣である松下清景と再婚したため、直政は井伊の姓を失い、松下虎松と名乗るようになる。

しかし、やがて井伊氏は井伊谷の所領を失い、まだ幼かった直政も今川氏に命を狙われる日々を送っていたが、新野親矩に救出されて、その後は養母である直虎に育てられた。天正3年(1575年)、徳川家康に見出され、井伊の姓に復帰させられ、虎松を万千代と改めて、井伊万千代と名乗るようになる。さらにかつての井伊氏の旧領である井伊谷を与えられる。

当時は、家康の小姓(児小姓)として男色(衆道)相手の間では最も深く寵愛されたという。

安土・桃山時代

直政は、高天神城の攻略を初めとする武田氏との戦いで数々の戦功(家康の寝所に忍び込んで来た武田軍の忍者の討ち取りなど)を立ててその名を轟かせた。天正10年(1582年)22歳の時にようやく元服を終え、万千代を直政に改めて、井伊直政と名乗るようになる。また、この年に松平康親の娘である花(後の唐梅院)と結婚する。

その後、旗本先手役に任ぜられて、家康子飼いの武将である本多忠勝や榊原康政の同僚となる。同年の本能寺の変では、家康の伊賀越えに従い、無事に滞在先の堺から三河国に帰還する。さらに武田氏が滅亡した後、後北条氏との交渉で徳川方の使者として政治的手腕としての実力を発揮し、家康が武田氏の旧領である信濃、甲斐を併合すると、武田家の旧臣達を多数与力に付属され、山県昌景の朱色の軍装を復活させて井伊の赤備え(いいのあかぞなえ)と呼ばれる精鋭部隊の大将となった。また、同時に井伊谷4万石に加増された。

家康との衆道による関係

天正3年(1575年)のある日、家康は鷹狩りに出かけた。すると、家康はそこにいた少年のあまりの美しさに本気で惚れ込んでしまった。この少年こそが、後の直政(当時の名前は虎松)だったのである。その後、家康は直政がかつて桶狭間の戦いの後に自分と内通していた疑いで殺害された井伊直親の実子であることを知り、直政を自分の家臣にした。当時の武士階級で衆道は一般的であり、武士の嗜みともいわれ、寵童あがりであることは出世への近道でもあったが(その例として、織田信長(前田利家)・武田信玄(高坂昌信)・伊達政宗(片倉重綱)・上杉景勝など)、直政は、あまり衆道を好まなかった家康が唯一愛した男性だとも言われている。

 

○ いかがでしょうか、井伊直政に最もページを割きましたが、振り返ってみると、彼こそが、群馬県高崎、甲斐の武田、浜松市の井伊谷、近江国彦根市と本州太平洋側の覇者だったようですね、武田家臣団の多くを与力として与えられ、井伊の赤鬼の後ろ盾に武田忍群を従えた跡が見られます、本多、榊原の伊賀ラインとせめぎながら必勝の方程式を解いたのでしょうね、また、彼ら四天王の若かりし頃、三河一向一揆を乗り越えたことがモチベーションとして最大の結束力を発揮したようです、というようなわけで、四天王のなかで最も忍者の素養があったのは井伊直政とします、

 

○ 次に、江戸時代がいかに身分の固定力が強かったのかを井伊家を例に挙げて見てみます、

井伊氏

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江戸時代の彦根藩家は直澄、直該、直幸、直亮、直弼と56度(直該が2度。なお直孝が大老になったかどうかは賛否両論である)の大老職を出すなど、譜代大名筆頭の家柄となる。また、堀田家、雅楽頭酒井家、本多家などの有力譜代大名が転封を繰り返す中、彦根藩家は1度の転封もなかった。

 

○ 下々は五人組で統制され、大老職は井伊家を始め譜代大名から大老四家にほぼ独占され、身分の完全固形化(職業の世襲)が完成したのです、生まれた場所でそのまま死ぬことを求められ、活きている間の活動、すなわち職業(ほとんど頭脳を備えた道具でしかない)も生まれた場所に属していた、このような人生観、職業観が現代の私たちの中にも色濃く残っています、本スレッドのタイトルに使用したローカリズムの意味はここから出てきます、自分の属した社会や一族(ファミリー)への帰属心や忠誠心、トヨタ自動車などの企業もコアのコアを突き詰めると、ローカルな価値観しか残っていない、と思われます、商売はグローバリズムで行っていても、コアなガバナビリティ、アイデンティティ、究極の利益のもって行き場所は、三河の繁栄となるのでしょうね、社会の中での役割や活動全般を含めて、遺伝子と呼ぶのはこのような訳があります、ちなみに、この遺伝子が宗教と置き換えられる時代や地域も多々あります、

 

○ 三河一向一揆やキリシタン大名、長く続いた中世での宗教政治が戦国時代を経て封建制に至る過程で、負ければ死以外に無い厳しい時代が、稀にみる完全固形化された社会を形成しました、一方、ヨーロッパでは、宗教時代からルターの改革、イタリアルネッサンス、イギリスの議会制民主主義、産業革命、フランス人権宣言、このように11世紀までは人権の観点からは大差が無かったのに、131415世紀の頃から、明の大航海時代や鉄砲伝来、ヨーロッパの大航海時代へとユーフラシア大陸の西と東の違い、例えとして都合が良いサイズなので、英国と日本、黒船の来航(ヨーロッパから西回りの文明)で出会うまで、見事なまでに反人権を極めた江戸の文化を今一度詳しく見てみましょう、

 

○ 小は五人組の意見に従わない等による村八分、さらには大きく藩命に従わないとの理由で切腹、これら大小織り交ぜたハラスメントが強烈に作用していた社会、現代社会でもまま見受けられるので、イジメを判定する時のツールを作ろうと考えています、「人を道具化しようとする動機」の強弱に関わっている、また生まれた場所と道具化を関連させ、差別(昇進させずコアに寄せ付けない)を根拠にした、差別の大本(おおもと)は曖昧であるべきである、だから差別が大手を振って融通無碍に人生や人民のありように大鉈(おおなた)を振ることができるのである、といった展開になると思います、

 

○ 来週はイジメとイヤガラセ、そして「ゆとり教育」という名のアマヤカセ(成長の本質、コアを見誤るとダラケてしまう)、ゆっくりとイジメの外周を彩るスター言葉にも触れてみます、「切り捨て御免」や「抜忍成敗」ほど苛酷ではないですが、成長期に長期に緩慢に作用すると、これが恐ろしくマイナス世界を深耕し、ドメスティックバイオレンスの種を内包してしまうケースなど、ゆっくりと取り上げますので、成長期に抱く自由への憧れ、反面、それが阻害されることの苦しさや恐怖、これらが未経験なのに、恐怖だけは体験してしまう皮肉さ、理解とはマリア・テレサのような深い愛を伴わないと在り得ないのかもしれませんね、教職に就く者は少なくとも恐怖心の専門家(Fear Therapist:フィアセラピスト)である必要があるのでしょう、無理解を源とする、疎外感、虚脱感、無気力、これらを克服する具体的な処方をコーチする仕事が教師の最低限の義務なんでしょうね、理解しあうことの困難さを分かり合うこと、ここから始めましょう、

 

○ 面白い記事を見つけました、

サムライ育成 さぶろう塾 −人間力を養う(葉隠)

http://www.36juku.com/rekishi/hagakure.html

『利発を表面にだす者は、多くの人に相手にされない。どっしりとしていなければ、様子や身なりも良くは見えない。恭しくて苦味があるような静かな調子が良い。』

利発とは、頭が良いとか回転が速いということです。

あまりにも優秀だったり賢すぎると人が敬遠してしまう。能力はいざという時に使えばいいことであり、普段は馬鹿を演じるくらいが良いのかもしれません。

「能ある鷹は爪を隠す」、 「大賢は愚なるが如し」という言葉で表されています。

 

『見かけが利発そうな者は、良い事をしても目立たず、人並みの結果では不足のように思われる。ちょっと見が温和な者は少しの良い事をすれば、多くの人が褒めてくれる。』

 

○ 上記の言葉は協調性、まさに和をもって貴しの発想ですが、一面では金魚鉢思考の危惧があります、限られた狭い空間で役に立つ処方なのでしょう、恐れることはなし、利発を求め、利発を研鑽してください、調和を優先すると、全体が沈む危険があります、調和を求めるに余り、足の引っ張り合いになっては、最もリスク対応能力の欠如した状態を招きかねません、「身分社会の儒教下の嫉妬」と名づけ、中国を含め東洋で熟成された思考なのでしょう、さらに、

 

○ 「葉隠」の精神を深めて見ましょう

葉隠

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「朝毎に懈怠なく死して置くべし(聞書第11)」とするなど、常に己の生死にかかわらず、正しい決断をせよと説いた。「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言は有名である。同時代に著された大道寺友山『武道初心集』とも共通するところが多い。

文中、鍋島藩祖である鍋島直茂を武士の理想像として提示しているとされている。

当時、主流であった山鹿素行などが提唱していた儒学的武士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判しており、忠義は山鹿の説くように「これは忠である」と分析できるようなものではなく、行動の中に忠義が含まれているべきで、行動しているときには「死ぐるい(無我夢中)」であるべきだと説いている。この考え方は主流の武士道とは大きく離れたものであったので藩内でも禁書の扱いをうけたが、徐々に藩士に対する教育の柱として重要視されるようになり、「鍋島論語」とも呼ばれた。明治中期以降、新渡戸稲造によりアメリカ合衆国で出版された英語の書『武士道』が逆輸入紹介され、当時の大和魂など精神主義の風潮が高まると再評価されたが、新渡戸の説く武士道とも大幅に異なっているという菅野覚明の指摘がある。

また「葉隠」は、覚えれば火に投じて燃やしてしまうことが慣用とされていたといわれる。そのため原本はすでになく、現在はその写本により読むことが可能になったものである。これは、山本常朝が67年の年月を経て座談したものを、田代陣基が綴って完成したものといわれ、あくまでも口伝による秘伝であったため、覚えたら火中にくべて燃やすよう記されていたことによる。

「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」

葉隠の記述の中で特に有名な一節であるが、葉隠の全体を理解せず、この部分だけ取り出して武士道精神と曲解されあるいは解釈されている事が多い。実際、太平洋戦争中の特攻、玉砕や自決の一根拠だった事実もあり、戦後は「軍国主義を推奨」と評されたことも。現在でも左翼系の文化人などに、このような解釈をする者が認められる。

しかし山本常朝自身「我人、生くる事が好きなり(私も人である。生きる事が好きである)」と後述している様に、葉隠は死を美化したり自決を推奨する書物では無い。葉隠の中には嫌な上司からの酒の誘いを丁寧に断る方法や、部下の失敗を上手くフォローする方法、あくびをしないようにする方法等、現代のビジネス書や礼法マニュアルに近い内容の記述が殆どである。また衆道(男色)の行い方を説明した記述等、近代人が勝手に想像している『武士道』とはかけ離れた内容もある。 戦後、軍国主義的書物と云う誤解から一時は禁書扱いもされたが、近年では生活に根ざした書物として再評価されている。

なお、戦後も葉隠を愛好した文学者に純文学の三島由紀夫、大衆文学の隆慶一郎がおり、二人ともそれに取材した作品を書いている。三島の『葉隠入門』、隆の『死ぬことと見つけたり』(いづれも新潮文庫)である。両作品は葉隠の入門書としても知られている(ただ、三島の葉隠に対する捉え方には問題があるという葉隠研究家からの指摘もある)。

 

○ いかがでしょうか、ひとことで、そういう時代もあった、ということでしょうね、今の子供たちには、宇宙から地球環境を見据えて議論してもらわなくてはならないので、多少の摩擦、弊害があっても、理解しあうマナーをコーチングし、理解の土壌が傷つかない限り、利発けっこう、ノーベル賞けっこう、特許もけっこう、としないと、調和(忠義、忠誠心)を押し付けると、人権抑圧のハラスメントを招いてしまいます、また、忠義、忠誠心では沈み行く日本丸、地球丸を押し留めることはできないとすべきでしょう、愚鈍を装い、「アホになれ」、とは最も利己的で、狡猾な行動とするべきです、「ボケの技」、出る杭として打たれたくない、ずる賢く出た杭のハシゴを隠す、こういうタイプ、官僚的な人物をトップにしてしまうと、永遠にアメリカの属国なのでしょう、アメリカが最も望んでいない日本の在り様だと自戒すべきでしょうね、

 

○ 折りしも国会では、三度(みたび)、財務省出身者を日銀副総裁に抜擢しようとしていますが、世襲の福田総裁では無理もないのでしょうね、「天下り」とは婉曲な世襲と理解すべきです、私たち日本人には、五人組(秀吉時代の)の相互監視と嫉妬、世襲を是とする遺伝子が備わっているので、ともするとこのような選択をしがちですが、ローカリズムの維持(自衛隊向けのモチベーションの維持のため)では必要な場面もあるのでしょうが、例えば強大なユダヤ資本との折衝等の場面では、世襲は機会選択の自由を狭め、生命力を弱めます、とはいうものの、大相撲のモンゴル横綱を受け入れる寛容さも見事なものがあります、江戸時代の庶民の生活も小さな春をいとおしんだ寛容さも遺伝子に組まれているのでしょう、ただ、成長期の児童の悲鳴を聞き漏らすわけにはいかないので、このように土木工事を続けています、「突き落とし殺人」の動機たるや、彼を間接的に自害(残された人生の時間の放棄)を強要した環境があったという事実を忘れることはできません、

 

○ 今週は筆が上手く運ばれたので、「ルーツの6」をクローズしたいと思います、では7でお会いしましょう。

 

 

こちらは理科系の方に、

一月に終章を迎えたのに、おかげさまで連日3桁アクセス頂いています、

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イジメのルーツ 6

ティトム球理論2 応用編 フォーチュンテラー fatacy宇宙の全てティトム球理論 降着円盤 銀河のジェット Titom人権とローカリズムの環境上の衝突 家康爺 の人生を通して人権とローカリズム(地域主義)の環境上の衝突