徳川家康

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服部半蔵

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イジメのルーツ 2

人権とローカリズム(地域主義)の環境上の衝突

   イジメのルーツ 2    五人組など民衆統制術の話です

 

○ 終戦後少し経ったある時期の話です、和歌山県の日高地方のある身内をたずねる機会がありました、いわゆる、水のみ百姓と呼ばれる立場でした、農村では蛙(かえる)とドジョウがある瞬間(新幹線の頃でしょうか)から姿を消しました、もちろん、浄化槽や水洗などはなく、人糞肥料の時代の話です、最初に面食らったのは、食事の時出たおかゆ、つぶつぶは茶碗の半分以下、デンプン汁そのものでした、ほんのりとお茶かおこげの香りがして、衝撃を受けたので、思わず「食事ってこれですか」と聞いてしまいました、大阪の都市部で暮らしていた私には、ご飯といえば白米しか食べていなかったので、はじめてみる白湯飯になんとも複雑な思いが交錯しました、中1の夏休みの出来事でした、

 

○ それではこの時代の影の主役、忍者の世界を垣間見て見ましょう、昭和、平成の時代にも影響を与えている思考方法が幾つか見つかるでしょう、

忍者

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戦うよりも逃げることに重点を置いていたため、通常は少しでも身軽になるよう重い鎖帷子は着用しない。 漫画表現として鎖帷子を簡略に描いているうちに網シャツを着たキャラクターデザインに発展した。背中に刀を背負うと動くとき邪魔になるため、大半は普通の武士のように腰に下げていた。ただし床下にもぐりこむときは盾代わりするため背負っていた。様々な特殊訓練を行い、特殊な道具なども所持しており、この道具を「忍具」、逃走術を含む種々の技術を「忍術」と言う。

忍術には「陰忍」と「陽忍」がある。陰忍とは、姿を隠して敵地に忍び込み内情を探ったり破壊工作をする方法であり、通常イメージされる忍者とはこの時の姿である。対して陽忍とは、姿を公にさらしつつ計略によって目的を遂げる方法である。いわゆる諜報活動や謀略、離間工作などがこれに当たる。古武術には忍術の名残りが見られるものもある。

近年の研究では、身体能力に優れ、厳しい規律に律された諜報集団という面の他に、優れた動植物の知識や化学の知識を持つ技術者集団としての一面も持つことが判っている。

忍者は上忍、中忍、下忍と身分が分かれている。上忍は伊賀では郷士(地侍)で、地主として小作人である下忍を支配している。中忍は下忍達を率いる小頭であった。甲賀では上忍ではなく中忍が最高位とされている。実際に各地の戦国大名に雇われていたのは下忍達であったといわれている。伊賀流は個人技、甲賀流は集団技に優れていた。

 

○ さて、これらの規律を支えた最も強力な思想背景に、

五人組 (日本史)

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制度の起源は、古代律令制下の五保制(五保の制)といわれる。時代が流れ、1597年(慶長2年)豊臣秀吉が治安維持のため、下級武士に五人組・庶民に十人組を組織させた。江戸幕府もキリシタン禁制や浪人取締りのために秀吉の制度を継承し、さらに一般的な統治の末端組織として運用した。

五人組制度は村では惣百姓、町では地主・家持を近隣ごとに五戸前後を一組として編成し、各組に組頭などと呼ばれる代表者を定めて名主・庄屋の統率下に組織化したものである。これは連帯責任・相互監察・相互扶助の単位であり、領主はこの組織を利用して治安維持・村(町)の中の争議の解決・年貢の確保・法令の伝達周知の徹底をはかった。また町村ごとに遵守する法令と組ごとの人別および各戸当主・村役人の連判を記した五人組帳という帳簿が作成された。

実態は、逃散したりして潰れた家や実際の住民構成とはかけ離れた内容が五人組帳に記載されていた場合があったり、また年貢滞納をはじめとする村の中の争議は、村請制の下では五人組ではなく村落規模で合議・責任処理されるのが普通であったため効果としては疑問がある。また、村によっては一つの村内で領主が家ごとに別々(相給)になっているケースがあり、その場合には領主が編成する五人組と村が居住区域をもって定めた五人組(「郷五人組」)が並存するという現象も生じた。しかし五人組制度が存在することによって、間接的に名主・庄屋の権威を裏付け、住民の生活を制約すると同時に町村の自治とりまとめを強化することには役立った。近代的自治法の整備とともに五人組は法制的には消滅したが、第二次世界大戦中の隣組にその性格は受け継がれていた。

 

○ 「1597年(慶長2年)豊臣秀吉が治安維持のため、下級武士に五人組・庶民に十人組を組織させた。江戸幕府もキリシタン禁制や浪人取締りのために秀吉の制度を継承し、さらに一般的な統治の末端組織として運用した。」、信長、秀吉の治世を息を凝らしてみている家康爺いの姿が目に浮かびます、

 

○ 一週間ぶりです、これから江戸時代の庶民の生活描写に入りますが、現在は使用が制限されている差別用語を幾つか使わざるを得ないと考えています、差別用語も時代の変遷とともに、また各個人間の認識の差も広いので、基準を設けるのに困難が伴うでしょうが、本稿は差別用語利用に当たっての標準になれるよう、力点を置いて描写してゆこうと思います、とくに注意を払う必要があるのが男女間における差別の関係は複雑で、しだいに家族間へと遷移するので、これら微妙な暮らしや精神の営みをも写せるとよいですね、今後、「差別用語」に分類したほうが良いと考えられる場合、「」付けにしてゆきます(努力目標です)、

 

○ 「水のみ百姓」は数千年の農耕文明を支えた基本的な概念にします、平安時代の荘園制度から、鎌倉時代の仏教を支え、戦国時代の土一揆やキリシタン文化、明治時代の富国強兵、昭和の高度成長と、艱難辛苦を絵に描いたような「水のみ百姓」は日本人の遺伝子を代表する性質だろうと考えます、近世でも第二次大戦時の兵隊さんや満蒙開拓農民、昭和の高度成長期の農村からの集団就職、現在では最先端技術の研究開発への人材供給など、アメリカの51番目の州などと揶揄されながらも、脈々と、営々と環境、安全技術の確立に邁進する姿の母体だろうと考えます、

 

◆民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず。

http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/kousi3.htm

「為政者が、すべての人民に理解させることは難しい。人民を方針に従わせることはできるが、なぜそう定めたかの理由をいちいち知らせることは、なかなか難しい」。これを、「人民はただ法令によらしむべきで、知らせる必要はない」などと解するのは誤り。

 

○ 孔子の言葉だそうですが、誤った解釈のほうの「人民はただ法令によらしむべきで、知らせる必要はない」、これを、ただ従わせろ、一切知らす必要は無い、という考えを実践するのが封建時代の特色なんでしょうね、そういう意味では、孔子は反封建制を紀元前551年に生まれ、ローマと共に民主制(≒仁の備わった君主論)を説いた立派な先人だったのですね、さて、能の無い支配者のすること、民衆の隷属化と情報統制について、江戸時代では具体的にどのように実施されたかを考察してみます、

 

○ お気づきかもしれませんが、「ルーツシリーズ」では、時代と登場人物、その施策と考え方がランダムで展開されます、できるだけ人物と事件については(年代)を付記し、その中心人物である家康爺いの感性がどのように形成されたかについて追いかけてみます、さしずめ信長とキリシタン文化から影響を受けた、外交面と鎖国への道どり、秀吉からは太閤検地、刀狩りの兵農分離政策にみられる内政に関する統治技術、それから、イジメのルーツへと繋がる身分制度の細分化へのメカニズム、「弱者が弱者を攻撃している限り体制は安泰」、これを無限に続けると人間性が希薄になる仕組みについて(弱者による弱者差別)の話題は頻繁に取り上げたいと考えています、

 

○ 同級生、服部半蔵正成(1542年 - 1596年)が没した1596年について、満年齢54歳の絶頂期に亡くなりました、家康爺いが朝鮮出兵に組み込まれないよう暗躍したのが最後の大仕事だったのでしょうね、秀吉の5年後に生まれ、秀吉の死の約3年前のことでした、

豊臣秀吉

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文禄・慶長の役から晩年

文禄元年(1592年)16万人の軍を朝鮮に出兵した(文禄の役)。初期は朝鮮軍を撃破し漢城を占領したものの、しだいに朝鮮各地での義勇軍の抵抗や明から援軍が送られてきたことで、戦況は膠着化。文禄2年(1593年)より休戦期に入った。

この頃、側室の淀殿との間に、秀頼が産まれる。その二年後の文禄4年(1595年)に、「『殺生関白』(摂政関白のもじり)と周りから呼ばれるほどの過ぎた乱行」を理由に、関白・豊臣秀次に切腹を命じた。秀次の補佐役であり、秀吉を長く支えてきた古参前野長康らも連座して切腹処分となった。秀次の妻子などもこの時処刑されている。実際に秀次にこのような乱行行為があったのかどうかには諸説がある。一説には「実子・秀頼が生まれたので、秀次が邪魔な存在になった」という見方もある。

文禄5年(1596年)、秀吉は日本に派遣されて来た明使節を追い返したことで文禄の役の講和交渉は決裂。慶長2年(1597年)、14万人の軍を朝鮮へ再度出兵した(慶長の役)。

慶長3年(1598年)818日、五大老筆頭の徳川家康や秀頼の護り役の前田利家に後事を託して伏見城で没した(死因については胃がんなど諸説あり)。享年61

秀吉の辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢 」。

秀吉の死を契機に五大老より撤退が命じられて慶長の役は終了した。7年に渡るこの戦争で朝鮮の軍民と国土は大きな被害を受けて荒廃し、援軍を送った明帝国も莫大な戦費と兵員を失って明清王朝交代の一因を作った。また日本側でも動員された西国大名が加封を受けられず疲弊した。因みに秀吉の墓は壮麗に築かれた(後述)ものの、この混乱の為、葬儀は遂に行なわれることがなかった。

 

○ 伊賀、甲賀については皆さんでお調べいただくとして、真田忍群について紹介しておきます、真田十勇士で有名ですが、家康爺いの三河を中心として、西に伊賀、北に諏訪・信濃・伊奈谷の真田忍群、もうひとつの中心に尾張、美濃の織田、東に甲斐の武田と、武術スター軍団の総レビューですね、

山本勘助(1493年)? - (1561年:清洲同盟の1年前) ?

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天文22年(1553年)信玄の命により、謙信に備えるべく勘助は北信濃に海津城を築いた。城主となった春日虎綱(高坂昌信)は、勘助が縄張りしたこの城を「武略の粋が極められている」と語っている。

『真田三代記』によると、勘助は真田幸隆と懇意であり、また馬場信春に対して勘助が築城術を伝授している。

これらの『甲陽軍鑑』に書かれた勘助の活躍から、江戸時代には勘助は三国志の諸葛孔明のような「軍師」と呼ばれるようになる。なお、『甲陽軍鑑』では勘助を軍師とは表現していない。

真田幸隆(1513年)- (1574年)  真田幸村のおじいさん

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武田氏では天文10年(1541年)に武田晴信(信玄)が父・信虎を国外追放して家督を継ぎ、本格的な佐久・小県郡侵攻を再開する。幸隆は晴信期の武田氏に帰属して旧領を回復しているが、その帰属時期は諸説ある。武田方の初見史料となる『甲陽軍鑑』に拠れば天文17年(1548年)の上田原の戦いに板垣信方の脇備として参戦しており、『高白斎記』に拠れば、幸隆は調略を用いて村上方の望月氏を武田方に臣従させたという。一方、江戸時代に成立した真田家史料では、『真武内伝』が天文13年説とともに武田家の伝説的軍師として知られる山本勘助の推挙があったとする伝承を伝え、『沼田記』が天文14年説、『滋野世記』が天文15年説を伝えている。

真田十勇士

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真田十勇士(さなだじゅうゆうし)は、武将真田幸村に仕えたとされる10人の勇士のこと(実在が疑われる人物も混じっている)。または、彼らを主人公にした柴田錬三郎の小説のタイトル。

猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三入道、穴山小介、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、 根津甚八、望月六郎

 

○ 歴史マニアの年表はこの程度に収め、人権マニアの側に舵を切ります、家康爺いの人生を振り返ると重要なターニングポイントが感じられます、2歳で母と別れた、後に清洲同盟、姉川の戦いに繋がる信長、秀吉との出会い、生死をさまよった三方が原の戦い、本能寺の変、秀吉との怨讐の戦、小牧・長久手の戦い、そして関が原、大坂冬の陣と数知れぬ戦いの中で、隠密行動、諜略活動、ミニコミ、ゲリラとありとあらゆる手練手管を披露し、70過ぎの大往生まで、後の270年間活きつづける基準を立てました、真田忍群とは2度、危機一髪で逃れ、すなわち、三方が原の戦いの後、武田信玄が京へ急いだのと、大坂夏の陣での真田幸村の攻撃をかわしたことでしょうか、中でも、ハイライトは服部半蔵率いる伊賀忍に助けられ、「本多忠勝に説得され家康は服部半蔵の進言により伊賀越えを決行し、加太越を経て伊勢国から海路三河にかろうじて戻った(神君伊賀越え)。」だろうと考えます、その後の出来事は柳生を含め伊賀の集の示す案に従っていたと認められます、

 

○ いよいよ「ルーツ 3」へ移動を考えていますが、戦国から江戸時代の農村の話が中心になるので、少し暗い話が多くなります、歴史を見るときは東と西、明るさと暗さ、対比させますのでくれぐれも一面的には固執しないで頂きたいと思います、17、18世紀では西のヨーロッパで進化した産業革命、議会制民主主義、方や元禄文化、しかし、黒船来航以降、明治からの19、20世紀では、最初に西欧文物の吸収から、戦後の民主主義へと、封建イジメ体制が変質してきた経緯があります、また、本稿のメインテーマは、家康爺いが一瞬触れた遣欧使節団からのルネサンスの情報を、宗教とからめて、鎖国という貝殻政策に至ったかを解き明かせればと考えています。

イジメのルーツ 2

ティトム球理論2 応用編 フォーチュンテラー fatacy宇宙の全てティトム球理論 降着円盤 銀河のジェット Titom人権とローカリズムの環境上の衝突 家康爺 の人生を通して人権とローカリズム(地域主義)の環境上の衝突