徳川家康

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服部半蔵

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イジメのルーツ 8

人権とローカリズム(地域主義)の環境上の衝突

   イジメのルーツ 8   信長の嫉妬を読みきった、信康切腹事件

 

○ このスピードだと、ゴールデンウィークの頃に終章を迎えそうですね、

 

○ 唐突ですが、人生には4つの麻薬、いわゆる麻痺させるものがあります、これを2つずつに分け、前者は肉体に作用するもの、後者は精神世界に作用するものとします、「麻薬撲滅キャンペーン」は大切ですね、代表的なヘロイン、これは肉体に直接、それも内面、神経系を麻痺させます、人生の時間的な繋がりを断ち切ってしまう恐ろしい薬剤ですね、いっぽう、肉体に直接作用し、外面に影響を与えるものとして、暴力や戦争があります、体罰、DV(ドメスティックバイオレンス)などが含まれますね、

 

○ それでは、後者の精神面に作用する麻薬として、内面的には、宗教があります、あくまでも麻痺させるものとしての役割を例えただけで、宗教が麻薬だとは思っていません、数千年の人類の歴史を紡いでこれたのも宗教のおかげかもしれません、今後も宗教的な要素は社会に必須のものなのかもしれません、ただ心配なのは、人類の未来に対して、宗教があまり方向性を示してくれていない、例えば、伝染病で苦しんでいるとき、やはり、役に立つのは、薬学であり、公衆衛生学なんでしょうね、前の章で取り上げたジュリアおたあが幾度となく家康爺いの側室への命令を、命を賭して断った、このような凄まじいエネルギーを宗教は秘めている、これを話したかったのです、このエネルギー、導く方向を誤ると大変な消耗が待っているのでこのように取り上げました、

 

○ 最後の4番目、精神面に作用し、外面的な麻薬として、人の道具化が挙げられます、家康爺いの時代は戦(いくさ)に負けると、それだけの理由で断頭されました、それは、逆に自分が負けると殺されるという恐怖を源にしています、今の時代は、戦国時代ほどの直接的な恐怖は無いのでしょうけど、出口の無さ、閉塞感を感じ、それが緩慢な恐怖に繋がるケースは多いのではと考えます、いずれにせしても、人を道具化する考えに繋がるケース、とくに、年を取り、衰弱してゆく道すがら人間の尊厳が薄れてゆく(同時に、生きた記憶も)、このような場所での道具化を見過ごしてはならないと考えています、この点だけは、儒教の年長者を敬う、これは正しかったですね、教師が道具化されていて、教えられる生徒は道具として生きることしか教えてもらえない、としたら、道具化された教師が世襲されてゆく、この場合は麻薬のように作用してしまうケースと考えてよいでしょう、

 

○ 週末毎にお会いするので、新しい挨拶言葉を考えてみます、キーワードの候補が幾つかあります、週末、土曜日、ウィーク、蘇(よみがえ)り、過去の秀逸な言葉として「ウィークエンダー」というのがありました、これに肖(あやか)り、挨拶性を加えて、「ハローウィークリー」、いかがでしょうか、前置きはこれくらいにしまして、いよいよ、ルーツ9、10へのクライマックスの下拵(ごしら)えにかかります、突拍子も無いことからスタートです、

 

○ 私はこれといった愛国者でもなければ、右翼でもありません、しかし、これだけはお伝えしておきます、日本人の優秀さについてです、近年、国内統治の不整合さから古館さん(ニュースステーション)が熱弁をふるう機会が多く見受けられます、欧米、アジア、ヒスパニック、モズレム、アフリカン、各民族との関係で、日本人および日本社会の優れた面が再認識されつつあるようです、生産品の品質の高さはピカ一ですね、ここからはイジメとコミュニケーションの関係について、また、品質管理の厳しさの話も織り交ぜながら、めでたく終章を迎えたいと考えています、

 

○ ルーツの8のメインテーマは、なんといっても家康爺いの、信康切腹事件(1579年)これに尽きると思います、例外的に酒井忠次に再登場願いましょう、

酒井忠次

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前半生

徳川家康が今川義元への人質として駿府に赴くとき、家康に従う家臣の中では最高齢者として同行した。

永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いの後、今川氏から自立した家康より、家老として取り立てられた。永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、酒井氏の多くが一向一揆に与したのに対し、忠次は家康にあくまでも従った。永禄7年(1564年)には、三河国から今川氏を締め出す総仕上げ・吉田城(愛知県豊橋市)攻めで戦功を立て、そのまま、吉田城主に取り立てられた。以後、忠次は「東三河の旗頭」として、三河東部の諸松平家・国人を統御する役割を与えられる。

家康の主だった合戦である元亀元年(1570年)の姉川の戦い、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)の長篠の戦い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの諸戦役に参加し、戦功を立てた。特に、三方ヶ原の戦いに際して浜松城の太鼓を打ち鳴らし敗戦の味方を鼓舞した逸話、長篠の戦いで鳶が巣山砦の奇襲を成功させて織田信長の賞賛を受けた逸話が有名である。

没落から最期

家康の厚い信任を受けていた忠次ではあったが、天正7年(1579年)に家康の嫡子・松平信康の件で織田信長からの詰問を受けたとき、大久保忠世とともに弁解の使者に立てられて安土城に赴いたものの、信康を十分に弁護せず信康切腹の命令を防げなかった(ただし、信康切腹事件が信長の命令によるという件は、異説も存在する)。

家康が豊臣氏の傘下に入ったのちも、豊臣秀吉から家康第一の重臣として遇され、天正14年(1586年)には従四位下・左衛門督に叙位・任官された。

天正16年(1588年)、長男の酒井家次に家督を譲って隠居する。慶長元年(1596年)1028日、京都で死去した。享年70。子孫も徳川家康に仕えて多くの戦功をたて、出羽庄内藩14万石(幕末期に17万石に加増)の藩祖となった。

松平信康

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松平 信康(まつだいら のぶやす)は、徳川家康(出生当時は松平元康)の嫡男。

切腹事件の真相--(1579年)

このため近年では、家康が信長に要求された為というより、家康と信康の対立が原因という説が強くなっている。

その史料として「當代記」「安土日記」(最も古いとされる信長公記)では家康と信康の間に問題が起こり、それを家康の方から酒井忠次を使わし信長に相談したと読み取れる。また信長は「信康を殺せ」とは言わず、「家康の思い通りにせよ」と答えている。これは自身の事情で築山殿と信康を葬り去ったということのようである。また「家忠日記」によると、信康を岡崎城から追放した際、信康と岡崎衆の連絡を禁じている。そして旗本で岡崎城を固めている。

前述の典厩五郎氏は浜松城派と岡崎城派との対立で家康と、岡崎城派に担がれた信康との対立に発展し切腹か暗殺に追い込まれたとし、この事件から甲斐武田家における武田義信事件のように信康を担いで岡崎衆による「家康追放」未遂事件があったとする説を唱えている。

後年の徳川家康は酒井忠次が嫡男の家次の所領に対する不満を訴え出た所、「お前も我が子が可愛いか」ときつい嫌味を返したという逸話が残っている。信長に対して忠次が弁明を行わず、結果として信康を自刃に追い込んだとして後々まで忠次に恨みを抱いていたという事を表す逸話であり、これが本当ならば、家康自らが信康を葬り去ったとする説と矛盾するものである。

説話

信長が自分の嫡男の織田信忠より優れた器量を持つ信康の将来を恐れた(高柳光壽説、史料は示していない)。

事件の発端になったという徳姫自身が信康弁明の為に安土に居る父・信長に会いに行くと家康に頼み込んだ。 [要出典]

信康は二俣城主で家康の信頼厚かった大久保忠世に自らの無実を改めて強く主張し、服部半蔵の介錯で自刃したという。このとき、半蔵が涙のあまり刀を振り下ろせず、検死の武士(天方道綱)が代わって介錯したとの話も残る。

信康の切腹に殉死者を出すほどの人望があった。 [要出典]

家康も信康の死を痛く悲しみ、関ヶ原の戦いで徳川秀忠が遅参したとき「信康がいればこんな思いをしなくて済んだ」と言った。

上記の内、半蔵の逸話、関ヶ原での家康の嘆き、家康と酒井の問答は徳川実紀中に「武辺雑談」「東武談叢」「寛元聞書」「柏崎物語」を出典として紹介されている。

 

○ いかがでしょうか、ここで登場人物を整理してみます、織田信長(この時44歳/48)、嫡男の織田信忠、家康爺い(この時36歳/72)、嫡男の松平(徳川)信康、徳姫(五徳、織田信長の長女)、信長に詰問(直接本人からかは疑問)された酒井忠次、そこに同席した大久保忠世、築山殿(家康爺いの正室、母は今川義元の妹)、甲斐武田家、話題の主軸は、信長と家康爺いのコミュニケーション問題が嫡男と正室の処刑にまで至ったのでしょう、これには、(1573年)に武田信玄が病死、(1578年)に上杉謙信が死去し、信長の覇権確立の瞬間であり、清洲同盟が従属の関係に変化した時でもあります、家康爺いの過度の恭順の証、言い換えると、織田の家臣団には組(くみ)されない独立性を保ったと考えられます、ここで徳川の家臣団の名わき役、お二方に登場願います、

大久保忠世

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大久保 忠世(おおくぼ ただよ、天文元年(1532年) - 文禄三年915日(15941028日))は戦国時代の武将であり、徳川氏の家臣。通称は新十郎、七郎右衛門。三河国額田郡上和田(愛知県岡崎市)の大久保氏の支流である大久保忠員の長男であり、忠世ともに武名で知られる大久保忠佐と忠教(大久保彦左衛門)は弟に当たる。子に大久保忠隣。蟹江七本槍の一人であり、徳川十六神将の一将をなした武将。

大久保氏は徳川家康の祖父・松平清康から松平・徳川氏に仕えるようになったといわれ、忠世の家はその支流ながら手柄の大きさから本家をしのぐようになった。忠世も永禄6年(1563年)の三河一向一揆や元亀3年(1573年)12月の三方ヶ原の戦いに参陣し、武功を挙げた。特に三方ヶ原の戦いでは、敗戦後に意気消沈する味方を励ます目的で、天野康景とともに武田の陣のあった犀ケ崖を闇夜の中銃撃して大混乱に陥れ、敵の大将である武田信玄に「さてさて、勝ちてもおそろしき敵かな」と賞賛されたという(もっともこの記述が残るのが実弟である忠教が著した『三河物語』なので、信憑性には疑問がある)。また、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいても弟忠佐、与力の成瀬正一、日下部定好とともに大活躍して織田信長から「良き膏薬のごとし、敵について離れぬ膏薬侍なり」との賞賛を受け、家康からはほら貝を与えられた。同年12月、家康から二俣城の城主に命じられた。忠世は武田の来襲に備えて城の改修を行ったが、現在二俣城跡に残る天守台や、二俣城の向かいに築いた鳥羽山城の庭園などは忠世によるものと考えられている。また、天正10年(1582年)6月の本能寺の変後に家康が信濃国に勢力を広げると、忠世は信州惣奉行として小諸城に在番している。

軍事的才能ばかりでなく、政治的にも優れていた。一時期、家康に反抗して追放となった本多正信の帰参を助けたり、若くして重んじられた井伊直政を嗜めたりしている。天正18年(1590年)、後北条氏の滅亡により家康が関東に移ると、豊臣秀吉の命もあって、小田原城に45千石を与えられた。

 

○ 家康爺いの人生を彩る名わき役、ユニークキャラで登場願いました、ホンダ(本田技研工業)ジェットのルーツなんでしょうか、

本多正信

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本多 正信(ほんだ まさのぶ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将・大名。徳川家康の重臣で、江戸幕府の老中。相模玉縄藩主。

生涯

反逆から流浪

天文7年(1538年)、本多俊正の子として三河で生まれる。はじめ鷹匠として家康に仕えた。しかし永禄6年(1563年)、三河にて徳川家康に反抗する一向一揆が起こると、弟の正重が家康に与したのに対して、正信は一揆方に与して家康と対立した。そして一揆衆が家康によって鎮圧されると、徳川氏を出奔して大和の松永久秀に仕えた。久秀には重用されたようであるが、やがて久秀のもとを去って諸国を流浪する。

流浪の間、正信がどこで何をしていたのかは定かではない。有力説では加賀に赴いて石山本願寺と連携し、織田信長とも戦っていたともされている。こうして諸国を流浪した末、旧知の大久保忠世を通じて家康への帰参を嘆願した。やがて忠世の懸命のとりなしによって無事に徳川氏に帰参することとなった(帰参時期は諸説あって定かではない。早ければ姉川の戦いの頃、最も遅くとも本能寺の変の少し前の頃には正式に帰参が叶っていたようである。

表舞台へ

天正10年(1582年)、本能寺の変が起こって織田信長が横死すると、当時、堺の町を遊覧していた家康は伊賀越えを決意する。このとき、正信も伊賀越えに付き従っていたといわれている。その後、家康が旧武田領を併合すると、奉行に任じられて甲斐・信濃の実際の統治を担当した。

天正14年(1586年)には従五位下、佐渡守に叙位・任官された。天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康が豊臣秀吉の命令で関東に移ると、相模玉縄で1万石の所領を与えられて大名となる。

正信が実際に歴史の表舞台に立つのは、慶長3年(1598年)の豊臣秀吉死去の頃からである。この頃から家康の参謀として大いに活躍するようになり、家康が覇権奪取を行なう過程で行なわれた慶長4年(1599年)の前田利長の謀反嫌疑の謀略など、家康が行なった謀略の大半は、この正信の献策によるものであったと言われている。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠の軍勢に従い、信濃の上田城で真田昌幸の善戦に遭って、遅参している。この時、正信は秀忠に上田城攻めを中止するように進言をしたが、容れられなかったと言われている。

初期幕政を牛耳る

慶長6年(1601年)からは、家康が将軍職に就任するために朝廷との交渉で尽力したといわれる。慶長8年(1603年)に家康が将軍職に就任して江戸幕府を開設すると、家康の側近として幕政を実際に主導するようになった。慶長10年(1605年)に家康が隠居して大御所となり、秀忠が第2代将軍になると、正信は江戸にある秀忠の顧問的立場として幕政を主導し、慶長12年(1607年)からは秀忠付の年寄(老中)にまでのし上がった。

しかしあまりに権勢を得たことは本多忠勝、大久保忠隣ら武功派の不満を買うことにもつながり、幕府内は正信の吏僚派と忠隣の武功派に分かれて権力抗争を繰り返すようになる。しかし家康の正信に対する信任が変わることは無く、慶長15年(1610年)には年寄衆からさらに特別待遇を受けて大老のような地位にまで昇進している。また、慶長17年(1612年)の岡本大八事件で一時的に武功派の巻き返しを受けたが、慶長18年(1613年)の大久保長安事件で大久保長安一党らを失脚させ、慶長19年(1614年)には政敵・大久保忠隣らを失脚させるなど、大きな権力を振るった。

慶長19年(1614年)からの大坂の陣でも、家康に多くの献策をしている。しかし高齢のため、最晩年は病気に倒れて身体の自由がきかなくなり、歩行も困難であったとされている。

 

○ ここで織田信長の1579年をピンポイントで見てみます、伊賀、甲賀、武田、陸上での忍者群との関係、さらには、毛利攻めでの水軍(瀬戸内、西海では水軍が忍者のように発達した「水軍ベルト地帯」)の動きなどです、

織田信長

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天正6年(1578年)116日、第二次木津川口の戦いで毛利水軍が、信長考案の鉄甲船6隻に大敗を喫し、孤立した石山本願寺と荒木村重は毛利の援助を受けることができなくなった。このころから信長方は優位に立つ。天正7年(1579年)夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。天正7年(1579年)9月、荒木村重は妻子を置き去りにし、有岡城から逃亡。有岡城は落城し、荒木一族の大半が処刑された。天正7年(1579年)10月、に毛利方であった備前の宇喜多直家が信長に服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。1580年(天正8年)1月別所長治が切腹し三木城が開城する。また本願寺も、天正8年(1580年)4月、正親町天皇の勅命のもと有利な条件で和睦し、大坂から退去させた。天正8年(1580年)には播磨、但馬、天正9年(1581年)には鳥取城を兵糧攻めに追い込み因幡、そして岩屋城を落とし淡路を攻略した。

天正7年(1579年)、伊勢の出城構築を伊賀の国人に妨害され立腹した織田信雄は独断で伊賀国に侵攻し、大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責すると共に、伊賀国人への敵意をも募らせた(第一次天正伊賀の乱)。そして天正9年(1581年)、信雄を再び総大将とし、6万の軍勢で伊賀を攻略。伊賀は織田家の領地となった(第二次天正伊賀の乱)。

天正7年(1579年)、信長は盟友・徳川家康の嫡男松平信康と、信康の生母の築山殿に対し切腹を命じたとされる。理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田勝頼への内通などである。いずれにせよ、徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれ激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は二人を自害させた(これに関しては異説もある)。

 

○ 私の観点では、これら登場人物(本多正信は始めは鷹匠として、後に奉行として甲斐、信濃の統治とあります)のほとんどが何らかの忍者群の影響を受けていると考えています、特に槍術(そうじゅつ)、服部半蔵(蜻蛉切(とんぼきり))を始め、本多忠勝(伊勢桑名藩初代藩主)の6メートルの柄の長さ(通常の長槍は4.5メートル)は何らかの伝達手段(遠距離での視認性の高さ、移動時の困難も相当のもの)も兼ねていたのではないかと考えています、伊賀、甲賀、伊勢、美濃、三河、信濃、甲斐、遠江、これらの地域を「忍群ベルト地帯」と呼びます、この時代では東海道を飛脚のように飛び交う(それも夜間に)のは朝飯前だったのかもしれません、

 

○ 伊賀、甲賀の忍群を上手く操る家康爺いに一抹の不安を表明したのが信康切腹事件の背景にあったのでしょう、さらにうがった考えですが、信長の長女の徳姫と、信長の仇敵今川義元の姪の築山殿の嫁と姑の争いに信康が巻き込まれた可能性もあるのではないでしょうか、それにしても、「築山殿の武田勝頼への内通」が理由だとすると、いっそう甲斐武田と伊賀、間を挟んだ甲賀の忍者の暗躍の影を読み取ることができそうです、手前味噌ですが、織田方の情報組織を家康爺いが担当し、信長の信頼を得るためには選択の余地の無かった信康、築山殿の扱いだったのでしょうね、信長が伊賀の忍群とキリシタンの両者に対してあと少し、忍者の情報収集力に肩入れしていたら、本能寺の変の光秀の動きも事前に察知できたかもしれませんね、下克上の前兆は在ったのではないかと考えています、今から見ると、あの時点の毛利の水軍も相当なレベルまで忍者化し、秀吉も手こずり、光秀への秀吉援軍指令が出たのでしょう、このような訳で、西の「水軍ベルト地帯」、東の「忍群ベルト地帯」、これら両者の一騎打ちが関が原の戦いだったように思います、

 

○ 以下の見解はルーツでの独特な見解ですが、信康事件の時期、1579年の当時、信康は20歳で亡くなるのですが、一方、井伊直政は1575年徳川家康に見出され、信康は直政の2歳年上でした、「衆道相手として深く寵愛したという。当時の武士階級で衆道は武士の嗜みともいわれるほど一般的であり、寵童あがりであることは出世への近道でもあった」、衆道については皆さんで調べていただくとして、信長と森蘭丸などのように、家康爺いと井伊直政、もう少し突っ込んで、「武田征伐の際に、信濃の反武田派の豪族が織田軍の元に集結するさまを見て「我々も骨を折った甲斐があった」と光秀が言った所、「お前が何をしたのだ」と信長が激怒し、小姓の森蘭丸に鉄扇で叩かれ恥をかいた(明智軍記)」、森蘭丸と明智光秀の関係、はたまた、井伊直政と信康の関係などもこのように錯綜していたのではないかと考えています、

 

○ さて、家康爺いの人生の2大事件(信玄との三方が原の敗走、信康切腹事件)の紹介が終わったので、いよいよ本論に戻ります、コミュニケーションとひとことで言いますが、この言葉は通常私たちが考える以上に複雑で広汎な影響力を持っています、コミュニケーションの充実と声高に叫ばれますが、コミュニケーションが不足し、信頼関係を構築できず、イジメへと繋がってゆくプロセスに焦点を当ててみます、コミュニケーションの深化の問題は各国独自の文化に起因した面が多々あるので、この場では、日本の進化してきた状況(品質維持レベルが高い)を取り上げ、さらに、それがイジメ、自殺(切腹、自害)への間接的な誘導となるメカニズムを分析してゆきます、

 

○ いよいよ、ルーツの9に向かいます。

イジメのルーツ 8

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