徳川家康

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服部半蔵

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イジメのルーツ 3

人権とローカリズム(地域主義)の環境上の衝突

   イジメのルーツ 3    島原の乱や足利学校などの話です

 

○ 宗教改革は16世紀からはじまったのですね、

マルティン・ルター

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マルティン・ルター(Martin Luther14831110日-1546218日)はドイツの神学者、牧師、説教家。ルーテル教会の創始者。もともと聖アウグスチノ修道会の修道士であったが、宗教改革の中心人物となったことでプロテスタント教会の源流をつくった。聖書をキリスト教の唯一の源泉にしようというルターの呼びかけはプロテスタント諸教会のみならず、対抗改革を呼び起こしたという意味でカトリック教会にも大きな影響を与えた。

 

○ 島原の乱はカトリック教会の最後の波動が東に伝わり、生じた現象だったのですね、ルターの晩年(ドイツでの出来事)と同じ時期になります、

島原の乱

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島原の乱(しまばらのらん)は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最も大規模な一揆による反乱であり、幕末の動乱に至るまでの最後の本格的な内戦であった。島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)、島原・天草の乱とも呼ばれる。宗教戦争と見なすのが一般的だが、それはこの内戦の一面しか見ていない(原城の籠城にて詳述)。この乱は一般に寛永141025日(16371211日)勃発〜寛永15228日(1638412日)終結とされている。

勃発まで

松倉勝家が領する島原藩のある肥前・島原半島と、寺沢堅高が領する唐津藩の飛地である肥後・天草諸島の農民をはじめとする諸領民が、百姓の酷使や過重な年貢負担に窮し、さらに飢饉の被害も加わり、両藩に対して反乱を起こした乱である。キリシタン(カトリック信徒)の宗教戦争と殉教物語として語られることも多いが、それらはあくまで一面でしかない。なお、ここでの百姓とは百姓身分のことであり、貧窮零細農民だけではなく、隷属民を擁した農業、漁業、手工業、商業など諸産業の大規模経営者をも包括して指している。さらに一揆には有馬・小西両氏の浪人、更には元来の土着領主である天草氏・志岐氏の与党などが加わっていたことからも、一般的な「鍬と竹槍、筵旗」というイメージは正確ではない。

島原は元はキリシタン大名である有馬晴信の所領であり、領民のキリスト教への信仰も盛んな土地であった。豊臣秀吉や徳川政権の時代に禁教政策がはじまると、慶長19年(1614年)、有馬氏は転封となり、代わって大和五条から松倉重政が入部する。重政は徳川家臣団の中での地位の向上を図り、江戸城改築の公儀普請役や彼が独自に計画したルソン遠征、さらには壮大な島原城の新築のための過重な年貢の取立てに加えて、厳しいキリシタン弾圧を始める。

その弾圧の残酷さは反カトリックであったオランダ人すら辟易させるものであった。次代の松倉勝家も重政の圧政を継承し、さらに過酷な取立てを行った。天草も島原同様キリシタン大名小西行長の土地で、関ヶ原の戦いの後に寺沢広高が入部し、次代の寺沢堅高の時代まで島原同様の圧政とキリシタン弾圧を行う。

 

○ 「その弾圧の残酷さは反カトリックであったオランダ人すら辟易させるものであった。」、この表現の意味は深いです、七つの海を越えてきたオランダ人たちは少々のことには驚かないはずです、なぜここまで残酷になるのかを考えると、やはり、未知の文明への恐怖心が凄まじく高まったのと、数十年前の文禄・慶長の役(1592年)の記憶が残っていたのも影響したかもしれません、人権を脅かす最も強くて具体的な感情は恐怖心なのかもしれませんね、

 

○ 次の記事も、この時代の描写に多くの示唆を提供してくれます、

 コラム:大西洋奴隷貿易時代の日本人奴隷

http://www.daishodai.ac.jp/~shimosan/slavery/japan.html

天正15年(1587年)6月18日、豊臣秀吉は宣教師追放令を発布した。その一条の中に、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買を厳しく禁じた規定がある。日本での鎖国体制確立への第一歩は、奴隷貿易の問題に直接結びついていたことがわかる。

 「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。 右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)

 日本人を奴隷として輸出する動きは、ポルトガル人がはじめて種子島に漂着した1540年代の終わり頃から早くもはじまったと考えられている。16世紀の後半には、ポルトガル本国や南米アルゼンチンにまでも日本人は送られるようになり、1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の一行も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、 こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。」「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか。」といったやりとりが、使節団の会話録に残されている。この時期、黄海、インド洋航路に加えて、マニラとアカプルコを結ぶ太平洋の定期航路も、1560年代頃から奴隷貿易航路になっていたことが考えられる。

 秀吉は九州統一の直後、博多で耶蘇会のリーダーであったガスパール・コエリョに対し、「何故ポルトガル人はこんなにも熱心にキリスト教の布教に躍起になり、そして日本人を買って奴隷として船に連行するのか」と詰問している。南蛮人のもたらす珍奇な物産や新しい知識に誰よりも魅惑されていながら、実際の南蛮貿易が日本人の大量の奴隷化をもたらしている事実を目のあたりにして、秀吉は晴天の霹靂に見舞われたかのように怖れと怒りを抱く。秀吉の言動を伝える『九州御動座記』には当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、それは本書の本文でたどった黒人奴隷の境遇とまったくといって良いほど同等である。「中間航路」は、大西洋だけでなく、太平洋にも、インド洋にも開設されていたのである。「バテレンどもは、諸宗を我邪宗に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の呵責にもすくれ(地獄の苦しみ以上に)、生きながらに皮をはぎ、只今世より畜生道有様」といった記述に、当時の日本人奴隷貿易につきまとった悲惨さの一端をうかがい知ることができる。

 ただし、こうした南蛮人の蛮行を「見るを見まね」て、「近所の日本人が、子を売り親を売り妻子を売る」という状況もあったことが、同じく『九州御動座記』に書かれている。秀吉はその状況が日本を「外道の法」に陥れることを心から案じたという。検地・刀狩政策を徹底しようとする秀吉にとり、農村秩序の破壊は何よりの脅威であったことがその背景にある。

 しかし、秀吉は明国征服を掲げて朝鮮征討を強行した。その際には、多くの朝鮮人を日本人が連れ帰り、ポルトガル商人に転売して大きな利益をあげる者もあった。−−奴隷貿易がいかに利益の大きな商業活動であったか、このエピソードからも十分に推察ができるだろう。

 

○ 思い起こしてください、

天正12 1584227日  従三位参議  

34月 小牧・長久手の戦い

この戦の直後から、

文禄元年(1592年)16万人の軍を朝鮮に出兵した(文禄の役)

そして、関が原に至るまで、バテレンの活動の時期と一致します。

○ さてさて、家康爺いの話題に戻ります、才能の秀吉と忍耐の家康爺い、両者は小牧・長久手の戦いで一歩も引かず互角の戦いでした、ちょうど、人生をかけて5歳違いの両者が将棋を指しているような、攻めの秀吉、構えの家康、この大一番をとくとご覧頂きましょう、ここでデータも出揃ったので、家康爺いの性格形成の過程をまとめてみます、

1 幼少時から、母と生き別れ、人質として暮らすなど、忍(しのぶ)従を強いられた、

2 信長、秀吉と出会い、信長からはキリシタンや一向宗(三河一向一揆)など宗教勢力との確執を学び、秀吉からは太閤検地、刀狩り、5人組、さらに朝鮮出兵に伴う諸大名への管理統制術を学んだ、

3 秀吉からはその他にも、管理会計、情報統制の仕組みも忍者組織の利用法と共に多くを学んだ、私が重要視している点は、伊賀や甲賀の下忍は草として日本全国の諸藩を飛び交い、いわば、現代でいう新聞やマスコミの役割を担っていた、家康爺いの運命を決めた幾つかの戦(いくさ)、小牧・長久手の戦いまでは服部半蔵と共に死地を乗り越えてきたのでしょうね、

1570628日 姉川の戦い

15721222日 三方ヶ原の戦い

158262日 本能寺の変、その後の伊賀越え

1584227日 小牧・長久手の戦い

1600915日 関ヶ原の戦い

161411月~12月  大坂冬の陣

4 本能寺の変のあと、秀吉と柴田勝家が争った、賤ヶ岳の戦い(1583年)で見られる美濃返し、「14時に大垣を出た秀吉軍は木ノ本までの丘陵地帯を含む52kmをわずか7時間で移動した」、まさに、甲賀忍群の面目躍如の戦(いくさ)だったのでしょうね、この翌年、両雄は小牧・長久手の戦い(実際は伊賀、甲賀の忍群の諜略技術の技比べ)、服部半蔵正成(1542年 - 1596年)亡き後、柳生十兵衛の父、柳生宗矩(1571年 - 1646年)が関が原の戦いを中心に家康爺いに仕え、江戸幕藩体制を磐石なものにしていったのでしょう、

5 下克上、一揆などの無法状態に置かれた領主は、身体を賭した究極のコミュニケーションをどのように磨いたのか、特に注目すべき点は、恐怖心と恐怖心のぶつかり合いを克服する情報戦略の面で家康爺いに学びたいと思っています、

6 鎖国(海禁政策)に対して、家康爺いは積極外交派であり、1616年 薨去の直後に、家光が明以外の船の入港を長崎・平戸に限定(1616年)している、

7 最後に、家康爺いの晩年にはこの方に登場願わないとならないでしょう、

崇伝

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(金地院崇伝 から転送)

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崇伝(すうでん、1569年(永禄12年) - 1633228日(寛永10120日))は、安土桃山時代から江戸時代の臨済宗の僧、幕府の政治家である。父は足利将軍家家臣の一色秀勝。以心崇伝、金地院崇伝(こんちいん すうでん)。「黒衣の宰相」と呼ばれる。

1569年(永禄12年)、京都に生まれる。父の没後に南禅寺で玄圃霊三に師事し、南禅寺塔頭の金地院の靖叔徳林に嗣法、さらに醍醐寺三宝院で学ぶ。福厳寺や禅興寺、建長寺などの住職となり、1605年(慶長10年)には南禅寺の270世住職となる。

1608年には豊臣政権に代わり江戸幕府を開いた徳川家康に招かれて駿府へ赴き、没した西笑承兌に代わり外交関係の書記を務め、やがて幕政にも参加するようになる。閑室元佶や板倉勝重とともに寺社行政に携わり、キリスト教の禁止や、寺院諸法度、幕府の基本方針を示した武家諸法度、朝廷権威に制限を加える禁中並公家諸法度の制定などに関係する。豊臣家との戦いである大坂の役の発端にもなった方広寺鐘銘事件にも関与する。

1616年(元和2年)に家康が死去すると神号を巡り南光坊天海と争い、崇伝は明神として祀る事を主張するが、最終的には天海の主張する権現に決定する。

1618年(元和4年)には江戸に金地院を建立した。翌1619年には僧録となる。以後、金地院僧録は崇伝の法系に属する僧で占められた。南禅寺(金地院)と江戸の金地院を往還しながら政務を執り、天海と共に黒衣の宰相と呼ばれた。また、南禅寺や建長寺の再建復興にも力を尽くし、古書の収集や刊行などの文芸事業も行う。

1627年(寛永4年)に起こった紫衣事件に対する幕府の強硬措置に、反対意見書を提出した沢庵宗彭、玉室宗珀、江月宗玩の3人を遠島の厳罰に処すつもりであったが、天海や柳生宗矩らのとりなしによって、沢庵は出羽上山に、玉室は奥州棚倉へ配流、江月はお咎めなしとなった。

1633228日(寛永10120日)に死去、享年64

 

○ さていよいよ、人権の観点をからめて家康爺いを見てみましょう、「こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。」、各地で豪族が群雄割拠した戦国時代の一面を表していると思います、さらに、考えなくてはならないこととして、風水害、飢饉、伝染病、鉄砲による負傷者の増大、続く戦乱による租税、年貢の厳しい取立て、各宗派の葛藤、ありとあらゆる困難が生まれてくる子供たちに降りかかったと見るべきでしょう、それも、全国通津浦裏に及んだのでしょう、

 

○ このような時代に生まれてきた子供たちを育てる機構としてどのようなものがあったのか振り返ってみます、少し時代はずれるのですが、代表的なものは足利学校でしょう、その胎動はあったはずですから、とくに、家康爺いが関東を支配した時代と重なります、

足利学校

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足利学校(あしかががっこう)は、平安時代初期、もしくは鎌倉時代に創設されたと伝えられる中世の高等教育機関。室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府であった。

教育の中心は儒学であったが、易学においても非常に高名であり、また兵学、医学も教えた。戦国時代には、足利学校の出身者が易学等の実践的な学問を身に付け、戦国武将に仕えるということがしばしばあったという。学費は無料、学生は入学すると同時に僧籍に入った。学寮はなく、近在の民家に寄宿し、学校の敷地内で自分たちが食べるための菜園を営んでいた。構内には、菜園の他に薬草園も作られていた。

享禄年間(1530年頃)には火災で一時的に衰微したが、第7代庠主、九華が後北条氏の保護を受けて足利学校を再興し、学生数は3000人と記録される盛況を迎えた。この頃の足利学校の様子を、キリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルは「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記し、足利学校は海外にまでその名が伝えられた。ザビエルによれば、国内に11ある大学及びアカデミーの中で、最大のものが、足利学校アカデミーである。学校自体は、寺院の建物を利用し、本堂には千手観音の像がある。本堂の他に別途、孔子廟が設けられている、という。

しかし1590年の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、後北条氏と足利長尾氏が滅び、足利学校は庇護者を失うことになった。学校の財源であった所領が奪われ、古典籍を愛した豊臣秀次によって蔵書の一部が京都に持ち出されるなど、この時期の足利学校は困難に直面した。しかし当時の第9代庠主三要は関東の新領主である徳川家康に近侍して信任を受け、家康の保護を得て足利学校は再び復興した。

江戸時代に入ると、足利学校100石の所領を寄進され、毎年の初めにその年の吉凶を占った年筮(ねんぜい)を幕府に提出することになった。また、たびたび異動があった足利の領主たちによっても保護を受け、足利近郊の人々が学ぶ郷学として、江戸時代前期から中期に二度目の繁栄を迎えた。

 

○ 「教育の中心は儒学であったが、易学においても非常に高名であり、また兵学、医学も教えた。」、戦国時代では、兵学、医学の普及伝播を担ったのが、草と呼ばれる、喇叭(らっぱ)、後の公儀隠密、忍者たちが受け持っていたのでしょう、日本国土を繋ぐ神経線は僅かに伊賀、甲賀、真田、根来(ねごろ)、後の富山の薬売り、近江商人、堺の鍛冶製品等、全国を行脚する忍群によって支えられていました、とくに、忍びのものとして、夜間の暗闘には凄まじいものがあったのでしょうね、

 

○ この章をまとめながら、抱いている疑問に、九州、四国、中国地方にはなぜ忍者組織が成長しなかったのか、たぶん、瀬戸内、日本海、蝦夷へと海運を担っていたので、水軍として兵学の部分が発展したのでしょう、また、近畿、中部、関東と兵法、剣術の進化が見られますが、これらの地方を見渡しても、儒学を中心に後の師範学校を形成した「坂東の大学」は光を放っていますね、ルーツの4では、忍者養成場がどうなっていたのかなどの話題を追ってみます。

イジメのルーツ 3

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